ショートショート4「蚊取線香」

 もちろん、いろんな方法はあった。あのとき、今すぐになんとかすることだってできていただろう。昔だったらそうしていたと思う。なんていうか、そうだな、大人になった、のかもしれない。今までは、イメージをなんとなく想像することしかできなかった。なにしろ目が見えないから、ここはどこなのか、どこにいけばいいのか、そういったものを想像するしかなかったのだ。

 もちろん今でも目は見えていないけれど、昔からは考えられないようなことがわかるようになった。いや、目が見えないからこそ、だろうか。目に見えないものが僕にいろいろなイメージを与え、そしてなんでも、いや、ある程度は自分の考えるままに動かしていくことができる。現代は実に便利だ。これで目が見えていれば、本当に申し分ない、と思う、いや、正確には、思っていた、だ。実際、多くの友人たちが長く閉ざされていた目を開いた。うーん、少し違う。開こうと、努力した、だ。それでみんな永遠に光を失うことになった。多分、暗闇に慣れすぎていたせいで、突然の光に耐えられなかったんじゃないか、と思う。

 僕はまだ目を閉じている。なぜ友人たちと一緒に行動しなかったのかはわからないけれど、なんとなくみんなについていくのが窮屈に思えた、そんな感覚があったと記憶している。

 この文章は、だから、僕には見えない。僕がすることは、イメージを文章にすること。ただそれだけだ。だから、もしこの文章を目にした人が−もちろんまだ目がある人がこの世界にいれば、ということだが−どんな感想を抱くかは、僕の知るところではない。そういう意味ではこれは文章ではなく、ただの文字の羅列だ。そこに意味があるかは僕にもわからないし、責任はない。つまり、目が見えないというのは、そういうことだ。そして、イメージの本質というのは結局そういうことなんじゃないかと思う。

 僕はそのとき大学の最終学年で、ほとんどの大学生がそうするように春には就職を決め、その後は卒業に必要な単位をとるためだけに学校へ通い、あとは(ほとんどの大学生がそうするように)なにをするともなく毎日を過ごしていた。親からの仕送りがほとんど無かったので週に2回か3回、アルバイトをし、週に2回学校に行き、あとは本を読んだ。寮母のいる寮だったので、外出して昼食を外で済ますとき以外は毎日3回、食堂で食事をする。時間は比較的しっかりと決まっていたので食事時になると食堂は寮生たちで溢れかえり、食事が終わると波が引いたようにみんないなくなる。食事以外はいったいみんなどこでなにをしているのだろうか、ときおり気になるが、なにしろ一人一部屋を与えられていたし、鍵がかかっているから、食事時以外はたまに廊下ですれ違って会釈を交わす程度だ。だから食堂で突然話しかけられたのには正直驚いた。

 「なぁ、お前の部屋、蚊取線香、あるか?」

 ブルーのシャツにストライプのネクタイ、そしてその上に季節はずれのジャケットを着た彼は、僕にそう話しかけた。

 「ところで、食事時にその格好はいろいろ面倒だと思うんだけど。」フルーツ・サラダの皿を手に持ちながら僕は尋ねた。

 「ああ、ちょっと出かけていたんだ。帰りがけだからさ、ほら、俺の部屋は3階だし、いちいち帰るのも手間だから。」服装を気にするふうでもなく、彼は言った。

 大学3年までは違うところに住んでいて、まだこの寮に住んで3ヶ月も経っていなかったので、正直彼の顔をみたことはなかったし、それになぜ好き好んで僕に話しかけてくるのかもわからなかったが(僕は好き好んで話しかけられるようなタイプじゃない)、ちょうど季節だったし、蚊取線香を出したところだったので、僕の部屋まで案内した。

 「うるさくてなかなか寝付けないんだ。」そういって彼は蚊取線香を一本手に取った。

 彼は渡辺という名前で、ここにはもう3年ほど住んでいるらしい。「監獄だよ。ご飯はたいしたことないし、部屋は狭い。おまけに、蚊が出る。」というわりに3年も住んでいるということは、どこかしら評価できる点があるのだろう。実家でもない限り、住みたくない家に3年続けて住むということはあまりない。

 彼が部屋を出て行ったあとで、僕は蚊取線香に火を灯した。特に蚊が嫌いというわけではないけれど、刺されるとあとで面倒だからだ。もちろんそのせいで死ぬなんて事はない。だから、些細なことのために殺生をしていると言われれば聞こえは悪いかもしれないけれど、これは必要悪だ。誰も僕を責めたりはするまい。

 30分ほど本を読んでいたら、渡辺が部屋に入ってきた。なんだか眠そうに、蚊取線香がなくなった、ともう一本もって行った。僕が火を灯したものはまだ五分の一も減っていなかったから、どうしたものかと思ったが、それほど高価なものでもないし、あれこれ詮索するのも変な気がしたので、なにも言わずに差し出したのを覚えている。

 本、といっても小説ではない。寮備え付けの図書室のようなところで、そのときに気の向いた本を取って、2時間ばかり読む。そんなことをここのところしばらく続けている。そのとき読んでいた本は公認会計士の関係する本だった。組織化され、専門化された社会においてお金の流れをいかに円滑に保っていくか、そういったことが書かれていた。ここまで社会がシステマティックになると、人は何を目的として生きればいいのかわからなくなるかもしれない。自分がいくら稼いで、どんな人のためになっているのか、それがわからなくなっているのが今の社会だ。

 翌日の食堂に渡辺の姿は無かった。もちろん大人数だから見落としていたのかもしれないし、朝早くに出かけて朝食は抜いたのかもしれない。いずれにせよ、僕が渡辺を最後に見たのはその前の晩だった。

 蚊取線香の匂いは、蚊にとって嫌なものではなく、むしろ引き寄せられるものらしい。しかし、もちろん、その中には蚊を殺傷する要素が含まれている。だから蚊は、蚊取線香の周りに集まって、いっせいに死んでいくことになる。

 僕はまだ目を開けていない。そしてしばらくはいろいろなものから遠ざかろうと考えている。それが吉と出るか凶と出るかは、わからない。なにしろ目が見えないのだ。わかるわけがない。




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